国東半島山ガイド
四方山話その21 黒木山の鬼ヶ城


 ガイド本掲載No.15は「黒木山」である。
 黒木山は四方山話その17で記述したとおり、山頂と三角点の位置が異なる山である。国東半島の山としては比較的有名であるにもかかわらず、会が山頂標識を設置するまでは、なぜか三角点にしか標識がなかった。三角点名が「黒木山」であるから三角点に「黒木山」という標識があったとしても間違いではないが、やはり山頂は山頂である。但し、黒木山には稜線上に4つのピークがあり、標高もほとんど変わらないので、地図がなければどれが高いのかがわかりにくい。しかも、山頂である510mピークと同じ標高線のあるピークが山頂と三角点の間にある。
 実は、山頂標識を設置する時に、どっちのピークを山頂にすべきか随分迷い、両方のピークを行ったり来たりした。その時は目見当で標識を設置したが、帰って梅木秀徳著「大分県山岳丘陵島嶼一覧」で梅木さんが示した山頂の緯度経度を調べるとそのピークと一致したのでホッとしたのを憶えている。
 国土地理院地図を見ても、510m等高線の範囲が山頂と示したピークの方が幅が若干広いので間違いないと確信した。なぜかというと510m等高線に囲まれたピークは、510m~519mの範囲内にあり、510mと記載しているが518mかもしれないのである。ピークに向かう傾斜がさほど変わらない場合、等高線の幅が広い方が必然的に高くなる。しかももう一つの510mピークは比較的大きなドーム状であるので510mの等高線より上部は小さな円であることから、限りなく510mに近い標高であることがわかる。その推定標高は下記に図式化している。
 さて、黒木山は当初三角点までの往復ルートのみを掲載予定していた。その後、調査登山に出向いたO田氏、I藤氏、N上嬢が山頂から北西に伸びる尾根を下り清水畑へとつながるルートの鞍部まで無理なく行けることを確認したので、そこから焼尾ダムに下り金ヶ峠に登り返す周回ルートもありかなと考えていた。
 しかし、編集も後半に入り黒木山の山腹に鬼ヶ城という巨石群があり、展望所もあるということを知った。更にここには全国的にも名を馳せたといわれる紀行平新太夫という刀匠がここの岩穴に籠もって刀を打ち上げたという伝説もあり、俄然興味はそっちに傾いていった。
 早々に調査に行くと、そこはまさに神秘的な場所で、確かにここに籠もって刀を打ったというのもあながちただの伝説ではないかもしれないと思わせる場所だった。これは、併せて掲載しないわけにはいかないと思うと同時に、さらに後日再探索に出向き鬼ヶ城の背後の尾根を辿って504mピークに登ることが可能だとわかった。そういうことで当初の単調な往復ルートは、魅力的な鬼ヶ城を廻る周回ルートとなったのだった。

   ※鬼ヶ城伝説
 鎌倉時代の豊後刀の名匠として知られる紀新大夫行平。実は夷谷の出身とも、終の棲家を夷谷に求めたともされています。夷谷は中世には「きりかね」という鉄を産出していました。行平は、刀身に仏像などの彫刻を施した作品を鍛えた最初期の人物とされ、京都御番鍛冶の十人に九州では唯一選ばれました。石河内溜池の奥にある鬼ヶ城は、刀を打つ様が鬼神大夫とも称された行平の金床であると伝えられています。(豊後高田市教育委員会)

黒木山三角点ピ-ク
オレンジプレ-トの標識:四捨五入して500mで記載
S・H・C別府の標識:古い三角点標高499.6mで記載
2015年3月8日設置の黒木山頂標識
黒木山頂稜線には4つのピークが
二つのピークは等高線が510mで同じだが、本文説明通りで下記のグラフで示している通り。山頂ピークAの頂上部は狭く、頂までの傾斜角はほとんど変わらないと思われるので推定標高は515m~517mである。もう一つの510mピークはBは、頂付近は広いドーム状なので傾斜角はかなり緩くなるため、推定標高は511m~513mの間位と思われる。
当初、鬼ヶ城入口にはこんな道標のみ
1年後には、立派な道標が設置されていた。
鬼ヶ城の巨石群
この岩屋で刀匠は刀を打っていたのか?
鬼ヶ城からP504に向かう稜線の端には展望所が
黒木山周辺は掲載ルートだけでなく、本文で記載した清水畑方面に降りるルートや一ノ瀬溜池から登るルート、清水畑方面の390mピークから太郎天尾根に向かうルートなどバリエーションルートがとれる。(読図ができる経験者と同行必須)
最終編集で、人の写った写真が足りないので、ちょうど生徒を引き連れて確認登山に向かうというA嶺氏に写真を依頼したが、生徒がみな同じ上下青のジャージだった。青という色が山のあおさにあまりそぐわず、むしろ何か不自然さを感じるので、しかたなく生徒があまり目立たない写真を使った。
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