国東半島山ガイド
四方山話その16 西叡山の金水銀水 


 ガイド本掲載No.43「西叡山」は、登山としてはやや物足りない部分があるが、その堂々たる姿とともに歴史深い山なのである。
京都の比叡山延暦寺、東京の東叡山寛永寺とならぶ天台宗の日本三叡山の一つであるというのはガイド本に記述したことであるが、唯一西叡山高山寺だけ当時の寺は現存していない。
 県図書館所蔵昭和50年発行角田貢著「ふるさとの史実と伝説」や他の書物によると、西叡山高山寺は六郷満山の68ヶ寺を統括する本寺で西叡千人坊といわれ豪華を誇り、権力も強大であった。しかし、800年前にその隆盛を妬んだ総本山比叡山より派遣された使僧(尼僧)の放火、または田染の尼寺の尼僧の恋の恨みの放火とも伝えられる火災により、全山ことごとく灰燼と化したとのこと。
 ほとんど寺の構造物は残っていないが、豊後高田市の調査によると西叡山の北面中腹に旧高山寺があったのではないかということで、現在の高山寺に登る道路の脇のその場所に「西叡山高山寺跡」の石柱が建っている。
 また、六郷満山の多くの寺院には奥の院といわれる秘仏などを安置してある場所があるが、西叡山高山寺にも奥ノ院伝承地「金水銀水岩屋」がある。昭和59年発行「六郷満山の伝承」の著者である渡辺了氏は、昭和12年に教え子とともにここに辿り着くと、木立の間から差し込んだ陽によって岩屋が金色銀色に輝いたとその本に書いている。国見在住の「じなし」さんもこの岩屋に辿り着いたとのブログでの紹介があった。
 また、その金水銀水の近くの展望所から見える向かいの尾根に光の差し込む穴が空いた「戸無し戸の口」という岩峰がある。これも金水銀水岩屋と同じく高山の奥ノ院とも伝わり、土蜘蛛が湧き水を守護していると伝わる土蜘蛛伝説がある。書物によって人名が違うが、田染小崎の喜平さんか横峰の茂十さんかがその山中で大岩を揺り動かす針金のような蜘蛛の糸を見て逃げ帰ったというよくわからない話だが、この大蜘蛛は見るだけで凶事が起こるとされ、高熱でうかされる話や、大嵐が起こるという話が残っているという。
 さらに、四方山話その2でも紹介した行入寺の故隈井住職を訪ねた時、西叡山の田染側空木地区の山中には轆轤岩屋や良醫岩屋など多くの岩屋の存在が最近明らかになって、道なき山中を探してまわったと聞いた。住職が本来の峯入りルートとして読み解いたと言われる『豊州前後六郷山百八十三所霊場記』には、これらの岩屋は「案内なくてなりがたし」などと記載されているらしい。我々も地図に落としてもらったおおよその位置を頼りに探しに行ったが、見つけることはできなかった。
 その後、豊後高田市の教育委員会が田染地区を入念に調査した報告書が公表されているが、その中でこれらを含む田染空木地区の岩屋群が紹介されている。(下段に掲載)
 いずれにしろ、西叡山周辺は六郷満山の一大聖地であった。
 ちなみに、現在の高山寺は昭和59 年(1984) に再建されたもので、旧高山寺を直接引き継ぐものではないらしい。しかし、山門や本堂にかけての参道は趣があり、駐車場からの両子山方面の展望は素晴らしい。いつか調査に行った折、ちょうどお接待をやっていて、我々も声をかけていただき御相伴に預かったという思い出がある。


田染上野付近から西叡山
豊後高田市HP「国東半島が誇る文化遺産「六郷満山」について」から高山寺の現況図
金水銀水岩屋(じなしさんのブログより)
鞍懸山より西叡山を眺めていると大きな岩穴があるのに気が付き、とりあえず写真を撮っていたら、どうもそれが「戸無し戸の口」ではないかと。
拡大すると位置からしても間違いなさそうだ
『豊州前後六郷山百八十三所霊場記』に記載されている六郷満山霊場の西叡山周辺(田染小崎地区)に関する部分
上記に基づき豊後高田市の「田染荘小崎の農村景観:2次選定文化的景観保存計画」に掲載されている霊場の巡礼順と位置図、距離(一里は約4km、一丁は約110m)
地図の番号は、上記霊場記の番号に同じ
地理院地図に落とし込んだ関係岩屋等(各地点は概ねで必ずしも正確ではない)
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