国東半島山ガイド
四方山話その12 二つの田原山


 ガイド本掲載No.48「田原山東」は、変な名前だと思われただろうが、梅木秀徳著「大分県主要山岳丘陵島嶼一覧」の標記に従った。ただ、実は「一覧」では田原山と東の間に「・」があり、「田原山・東」となっている。
 いずれにしろ、こんな名前全国探してもないような気がする。この名前の元となる「田原山」は西にある「鋸山」の本名であることはご存じのことだと思う。ガイド本ではなぜあえて「田原山」を「鋸山」で示したかというと、その山態を上手く表した「鋸山」の方が山仲間の間でも地域でも一般的となっているからである。
 それはさておき、本家「田原山」の東にあるピークだからといって「田原山・東」はないだろうと云う気もする。「東田原山」とか「田原東山」で良かったんじゃないだろうか。山の後に東をくっつけるなんて山に失礼である。
 ところがである。「田原山(鋸山)」には三角点はなく地図上では542mとなっているが、「田原山東」には、三角点があり標高は543mと1m高い。しかも、気づいている人も多いと思うが、三角点名は「田原」である。となると「田原山東」が本家「田原山」ではないのかと思えてしまう。
では、田原という三角点名はどこから来たのか。国土地理院に聞いてみたが、昔のことでよくわからないが、一般的には地名が多いから地名ではないかとのこと。勝手に推測すると、元を辿れば国東半島は大友の重臣であった田原氏の領土であったが、現在の杵築市大田村に田原氏の本拠地の沓掛城があった。おそらく杵築市大田の前の行政区西国東郡大田村の合併前の西国東郡田原村の名前はこの田原氏を由来としているのだろう。
 というわけで三角点名「田原」は田原村の代表的な山という意味でつけられたと想定できる。三角点を設置した当時、田原村で最も高い場所で展望が良かったのがが「鋸山」でなく「田原山東」だったので、三角点名を「田原」にしたというのが本当のところではないだろうか。
 しかし、山としては「鋸山」の方が六郷満山の修験の山として向いているし目を引くので、こちらを「田原山」と命名したと考えられるというのが勝手な推測である。
 ついでに、国東半島のちょうど頸の所にあたるガイド本では南西地区になる連山を地理学では田原山地塁と呼ぶ。この連山の主峰は標高やその雄姿からして華岳だろうが、なぜか田原山の名前が使われている。
 地塁とは、並行する正断層によって限られ,周囲よりも相対的に隆起した細長い地塊(コトバンク)で、田原山地塁は桂川・安岐川地溝帯と立石地溝帯に挟まれて隆起した山塊である。
 「田原山東」は、この連山の中で「華岳」「西叡山」に次ぐ3番目に標高の高い山であるが、「鋸山」に名前も人気も取られ登山対象にもなっていなかった可哀相な山なのである。みなさん登ってあげましょう。 

山香側から田原山と田原山東。やはり田原山(鋸山)の方が目立つか
国土地理院地図
旧西国東郡大田村合併前の田原村と朝田村の行政区域
しかし、拡大してよく見ると543m三角点:田原は、実は朝田村になっているのに気が付いた。となると三角点名は朝田で、山名は朝田山で良かったんじゃないかと思えてくるが、まっいっか
最初の調査登山で山頂にはすでにSHC・別府の山頂標識が。ただし、標識は田原山となっている。おそらく三角点名をそのまま山頂名にしたのだろう。では、本家田原山は?
会の標識を測量ポ-ルに設置。今はどうなっているだろうか。
下にずり落ちていますが健在です。(2020.1.31Yamapの記録から写真拝借)
田原山東から田原山方面(大観峰と八方岳)
登山口標識
田原山地塁位置図(1983年発行大分大学教育学部「国東半島-自然・社会・教育-」)
  【HPへ戻る】
inserted by FC2 system